2005-10-05 18:25:52
「月見草、そうですか。」 [ ブログ ]
私はそれでこの、無聊なうちに、せっかく踊って来た好奇心も、何もすっかり消えてしまった。また、手のやり場もない、無聊を感じながら馬車の垂幕をおろしてしまった。
しばらくすると、老人がこういった。
「あの草はつい明治二十三年の洪水までここらになかったのです。」
「………」
「この奥に、早池峯山(はやちねさん)という山が、その地図にもありましょう?」と、私の手に持っていた地図に目をやった。私はそれに連れて、老人の顔を見ていた目を地図の上に落とした。
「はやちね。この早池峯(はやいけみね)と書いてある山ですね。ええ。」と私は老人に話の先きを促がした。
「いいえ、その早池峯の裾の平にね、蜜蜂を飼うと言って種を播いたのです。ところが二十三年の洪水の時に、そこがすっかり流れてしまった。すると、この猿(さる)ヶ石(いし)の河岸一帯に、どうして広がったものか、月見草が咲き出したのです。それから年々殖えて行く。」
「おもしろい話ですね。」と私は心底(しんそこ)から言った。
そして、今まで自分の目に見えていた、草の枯れた姿を思い浮かべて、生きた人の運命を思うように、その草の、亡びなかったのを祝した。